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メディアリテラシー [一般学術]

各種媒体、特にマスメディアにおける表現に対して、それを読み解く能力や知識など。
膨大にして一方的に流れてくるな情報を鵜呑みにするのではなく、主体的に批判的眼力を発揮して分析できることが必要である。
あらゆる(テレビに限った例でも、ドラマ、バラエティ、CM、さらにはニュースも含めたすべての)メディア表現には、ある種の恣意がはたらいていて、受け手を特定の方向に誘導しようとする、あからさまな、ないしは隠しメッセージが含まれていると、警戒しながらメディア表現に接する態度が重要だと言える。

ジェンダー関連で言えば、「テレビCMの中で家事をしているのはお母さんばかりである」などの例を発見するのは、メディアリテラシーの訓練に最適かも。
あるいは、テレビドラマが知らず知らず人々に<異性愛でなければならないという意識>を植えつけているのではないかといった視角で批評的に視聴していくことも可能だろう。

 


ノーマライゼーション [一般学術]

いわゆる障害者の自立と社会参加を促す概念。
障害者の生活をできるだけ普通(normal)に近づけていこうということ。
障害者を特別なものとして一般社会から隔離し、非障害者との共生を妨げがちだった従来への反省から言われるようになった。

多い誤解として「ノーマライゼーションとは障害者を《障害がない状態》にする、すなわち『普通にする』ことである」「障害者に特別なサービスを提供するのはノーマライゼーションに反する」などがある。そうではなく、障害者が障害があっても普通に暮らせる状態を創出し、そのために必要なら特別なサービスやケアを適宜おこなっていくのが、真のノーマライゼーションである。

「バリアフリー」などはノーマライゼーションを進めるために導入されているが、もっとも必要なのは「心のバリアフリー※」であるのは言うまでもない。
※車椅子の人にとっては階段などは深刻な障害(=バリア)なのだが、それよりももっと大きなバリアは、「健常者」を自称する非障害者が障害者を自分たちとはちがう種類の人間であるかのように見る気持ち→心なのだ

「障害がある人」に特化した配慮ではなく、誰にとってもバリアフリーな状態を想定していくことでノーマライゼーションを実現しようとするスタンスや、その成果が「ユニバーサルデザイン」。

 


3年B組 金八先生 [文化全般]

武田鉄矢が教師役の学園ものテレビドラマ。
桜中学の3年B組を担任する坂本金八先生が、様々な問題に生徒の立場で取り組み解決していく過程を描いたストーリー。
1979年にシリーズ第1作が放映されて以来、連続もの、特番形式を織り交ぜて、長らく人気シリーズとなった。
それまでの学園ドラマは、中村雅俊などが熱血教師役のいわゆる「青春」ドラマだったのが、戦後民主主義の退潮に合わせて、それよりもリアルな、現実の教育問題などをまじめに扱うドラマとして制作されたのが、斬新で支持された。

一時期は「人という字を見てください。支え合って立っているでしょう。だから人は支え合わなくちゃいけないんです」などの名セリフがギャグ化するなど、多少アナクロ化していたが、後年のシリーズでは、時宜を得た諸問題も盛り込み、新機軸を打ち出して、新たな支持を集めた。

そのうち「第6シリーズ」と呼ばれる、2001年から2002年にかけて放映された分では、「性同一性障害」も主要テーマのひとつに据えられ、「男子になりたい女子生徒」役を上戸彩が好演して話題を呼んだ。

なおシリーズ第1作のとき、筆者は本当に中学3年生だったのだが、当時生徒役だった田原俊彦が『教師びんびん物語』で初めて教師役をした年に、筆者も大学を出て初めて教壇に立ったというのが、なかなか因縁を感じる。またそんなこともあって、拙著「女が少年だったころ」の原稿を書き始めたころには、『3年B組金八先生』云々という記述をよくしたものだが、それが出版されるときには、向こうのほうからテーマに近づいてきているなど、よもや思いも寄らなかったものである。(^o^;)

 


学習指導要領 [一般学術]

文部科学省が定めた学校教育の基準。学校行事の趣旨から、教科内容・カリキュラム、小学生が何年生でどの漢字を習うかまで、細かく規定している。タテマエ上はあくまでも、指導の目安ということだが、実際にはこの学習指導要領をもとに教科書などが作られ、事実上は強制力のある決まりになっている。

これの存在のおかげで、例えば極端なカルト宗教団体が信者の子供に偏った内容の教育を施すことなどを、公の教育とは認めずに排除することも可能となる。その一方、各学校・教師の自主性を奪い、また授業内容が教科書に拘束されるため、子どもたちにとって勉強が、おもしろくない知識の詰め込みになってしまうことにもつながりかねない。日の丸・君が代の取り扱いも盛り込まれているため、卒業・入学シーズンのたびに、ムダなもめごとが起こる原因にもなっている。

近年ではいわゆる「ゆとり教育」で、学習内容が異様に削られたことが、いわゆる学力低下論議も呼んだりもした。

 


隠れたカリキュラム [一般学術]

学校における、学習指導要領に主に基づき、教育基本法の理念に則った、正規の望ましい学習内容・指導プランなどが、いわば表のカリキュラムだとすると、そうではない、「裏の」カリキュラムも、教職員も気付かぬ間に潜在していることを指して、「隠れたカリキュラム」と呼ぶもの。
特にジェンダー観点から、男女の平等も含めた、人権や相互理解の概念を本来教えるべき学校で、逆に男女の区別や、それぞれの性別の「らしさ」、それに基づく性別役割分業を児童生徒に刷り込み、そのために世の中の性差別を強化・再生産している側面があることを意味する言葉として使われている。

具体的には、男女別名簿やランドセルなどの色の区別、教職員が無意識に持っているジェンダー観の投影、教科書などの教材に表れている世の中のジェンダー意識の影響などがある。

ちなみに「《隠れた》って、ナンで隠れてんねん、誰が隠してん!?」というあたりを明確にする意図で『隠されたカリキュラム』と言う場合もある。

 


ブルセラ [文化全般]

「ブルマー&セーラー服」の略。
1980年代の後半あたりに、いわゆる男性向けのエッチな雑誌として、女子高生のエッチなポーズや行為をモチーフとしたものがメジャー化する中で、それらを指して「ブルセラもの」などと呼ぶために使われ始めた語。
その後、女子高生の着用済みの制服や体操服、さらに下着などを売買する店が「ブルセラショップ」と呼ばれるようにもなったが、この「ブルセラショップ」のひとつが1993年に当局の摘発を受けてニュースになったため、結果として「ブルセラ」の語やその内実は、さらに一般への広がりを見せるようになった。

ごく普通の女子高生が、自分の下着をお小遣い欲しさに売るという行為の広がりは、当時の人々の寒心を誘ったが、ほどなく「援助交際」の社会問題化にまで発展した。

問題の根底には、売る側・買う側双方の、本当に必要な性教育・性情報などの欠如などによる、不均整なセクシュアリティ環境があると考えられる。。