性の賞品化 [専門学術]
好きの多様性 [専門学術]
ホモソーシャル [専門学術]
それゆえに、男性ジェンダーを割り振られている者は、その中心公的領域の構成員となるための資質が不可欠となり、権力機構の担い手として適切にふるまうよう常に要求され続けることになる。
いわゆる「男らしさ」を確実に遂行することが必須となるのは、その一環である。その場が各種の「男らしい」とされる表象に満ちていることが、権力機構としての特権的位相に相応しいという評価と密接に紐付けられ、構成員どうしが互いに「男らしい」言動を行為しあうことが、その場を周縁である女性領域よりも優位に価値づける文化的装置として機能する。
加えて、私的領域とした女性領域を劣位に置き続けるためには、女性蔑視的な価値規準に従うことも重要となる。女性領域は性的な興味関心を向ける対象にすぎないものとみなすことはその核心のひとつだろう。同時に性的な興味関心を向ける対象をもっぱら女性領域に限ることで、男性ホモソーシャル内部からは性的な要素を排し、公的領域に相応しいとされる様相をを整えることも実現される。
これらがインセンティブとなり、構成員には常に「男らしさ」規範を遵守し半ば相互監視的に全員が「男らしい」ことを追求する力学が発生する。それらは構成員どうしが結束を強め連帯意識を確かめあうプロセスとしても働き、しこうして強固な「男同士の絆」に支えられた男性集団「ホモソーシャル」が現出し、その内部には苛烈なミソジニーと同性愛嫌悪の風潮が醸成されるのである。
じつのところ、さまざまな社会的事象はこうした構造上で起こっている。男性領域である特権的中心権力機構と周縁化された私的領域。個々人に対して社会的に割り振られるジェンダーが男女のいずれであっても各種ジェンダー規範によって各人のありのままのありように向けて抑圧は発生するが、それらがこうした不均衡な権力配分の社会構造の上にあり、その構造にこそ由来している、という俯瞰は重要である。ジェンダーに関わるあらゆる社会問題は、この男性ホモソーシャル構造と不可分だとも言えよう。ここを押さえることが、「男女不平等」「性差別」といったテーマを、いたずらに男女両カテゴリの個々人どうしの対立にミスリードしないコツでもあるだろう。
◎このほか、「ボーイッシュな女性はそれなりに存在できるのに男がスカートをはいたり化粧をすれば直ちに変態認定」「女性は多様性を認め合うことに相応に柔軟なのに、男性がなかなかそうできないのはソレを認めることで自分が男でなくなってしまう気がして怖いのかも」なども、おおむねこの男性ホモソーシャル構造をあてはめることで腑に落ちるところは大きい。
◎なお一般的にはセジウィックが唱えた「ホモソーシャル」は、上述したとおり男女各カテゴリの権力バランスが不均衡な位置関係を包含した概念として用いられ、この項でもここまでその用例に従っているが、一方でその構図は外して単に字義どおりに「性愛を伴わない同性どうしの親密な関係性に基づく集団」を意味しようという用法もある。
(2017/04/26)
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アライ~「普通」 [性の多様性]
ここ10年前後の間に、国内のセクシュアルマイノリティをめぐる状況は、総体的にはめざましく進歩したと言えるのはまちがいない。立法や行政、司法のレベルや、あるいは民間企業等、その他の公共の場面でも、LGBTの存在が念頭に置かれ、さまざまな取り組みがなされるように、少しずつではあるがなってきている。一般の人々の間でも、偏見を排した豊富な情報が出まわることで理解が進み、意識の変革は着実に進んでいる。自身はLGBTには該当しないが性的少数者に好意的で必要に応じて支援者になるという人たちも増え、「アライ」と呼ばれている。いわば、性的少数者は「差別してもよい変態」ではなく、LGBTが生きづらさに直面せざるをえない社会環境は人権問題なのだという認識が広まってきているのである。
もちろん、一口に日本国内と言っても都市部と地方では当然に様相は異なり、地方ではまだまだ古き良き伝統と表裏一体の保守的な因習が残る中で、「普通」とされるセクシュアリティから外れる性的少数者への風当たりの強さは都市部の比ではないという話も折にふれて耳にするので、そのあたりも解釈のマージンが若干は必要である。
加えて、ぜひふまえるべき点を、今一度ここで確認するなら、それは、性的少数者は特別な存在なのではなく、性的少数者ではないことが「普通」なのではない、ということである。
自らを「普通」という強者の位置に置いて、かわいそうなマイノリティのことを理解してあげるというスタンスだと、決して良い結果へはたどり着かない。なぜ現に「普通」とされているセクシュアリティだけが「普通」なのか? を疑ってみることこそ、ひとりひとりの多様で豊かなセクシュアリティを再考する機会にもなるだろう。多様な存在が、わけへだてなく尊重され受容される社会のほうが、よりおおらかで誰もが生きやすいであろうことは言うまでもない。
男の娘~BL・百合 [性の多様性]
テレビのバラエティ番組などでは主流である「オネェ系」類型の一方で、ライトノベル、マンガ、アニメなどに描かれる性的少数者はどうだろうか。同性愛およびトランスジェンダルな要素を基本的には好む文化的風土という基盤上で、これらのポピュラーカルチャーでは、またちがった特徴的な様相が顕著となっている。特に今世紀に入って以降、この分野でのさまざまな試みは、現実のセクシュアルマイノリティの実際よりも数歩先を行く先進的な取り組みになっているとさえ言える。
日本のアニメにおいては、その源流が『リボンの騎士』のサファイア王子といった草創期の作品にまでさかのぼれるほど、トランスジェンダルな登場人物は珍しくない。以降も『ベルサイユのばら』のオスカル、『ストップ!!ひばりくん』の大空ひばりなどをはじめ、枚挙にいとまがないくらいだ。むろん近年の作品群にも、その特長は受け継がれており、2010年代に入ると、その描かれ方も多様化し、進化している。美少女の姿の少年が活躍する作品群は「男の娘」ものと呼ばれ、人気のジャンルとして興隆している。
このように男女の二元的な区分に収まらないキャラクターをくりかえし目にする機会があることは、視聴者の性別観に作用し、性別概念自体を問いなおす原体験にもなる可能性があるという観点から、おおいに意義があるだろう。
BL(ボーイズラブ)と呼ばれる、男性どうしの性的なものを含む親密な関係性を描いたマンガなども、すでに巨大な市場として認識されている。これらは、おもに異性愛女性の性的ファンタジーに応えるものとして制作されているため、これらに描かれるホモセクシュアルは実際の男性同性愛者の現実を反映したものではないとして批判されることもあるようだが、入手のしやすさから、若いゲイ男性が読者となることも少なくないようである。
女性キャラクターどうしの親密な関係性を物語の主眼に置いた作品群もまた、年々ボリュームを増してきていて、「百合」と言えばジャンルとして通用するようになっている。こちらも作品ごとの方向性は多様であり、現実の女性同性愛を必ずしも反映していないのはBLと同じであるが、やはりレズビアン女性からの一定のニーズはあるようだ。また男性の愛好者が多いのとともに、広く女性全般からも支持があるのは、BLと対比したときの百合の特徴となっているかもしれない。
「BL」も「百合」も、そのポイントは直接的な性的描写ではなく、登場人物どうしの心の襞に触れるような関係性のやりとりだと言われている。それを「異性間」に読み替えるにせよ、「友人」関係に当てはめるにせよ、そうした人間関係のモデルケースを、同性どうしの親密性描写の中から読み取る経験が、多くの人々に共有されることは、やはり異性愛至上主義が相対化されるうえで有意義だろう。
このように、ポピュラーカルチャーに登場するセクシュアルマイノリティ表象は、必ずしも現実世界の状況と写実的につながってはいないとしても、その質と量の双方から、現実に作用してそれを変えていく力を持つだけのものになっている。
オネェ系~ニューハーフ [性の多様性]
日本のテレビのバラエティ番組などには、セクシュアルマイノリティ表象をともなった芸能人が多数出演している。
これに対しては、本来は日本社会には同性愛やトランスジェンダーなどに寛容な文化的特質があり、古来よりそうした多様なセクシュアリティを積極的に取り入れた芸能を愛好してきた歴史が、現在もなお息づいているのだという指摘もある。今日の日本におけるホモフォビアやトランスフォビアが、明治以降に近代化の過程で西洋から輸入されたものだという側面も、たしかに大きいので、これは一面の真理ではあると言えよう。
しかし、メディアの中に描かれる性的少数者にかんしては、楽観的に見過ごしてはいられない問題も多々ある。
昨今のテレビではセクシュアルマイノリティ表象をもつ芸能人をひとくくりに「オネェ系」として扱い、同性愛者とトランスジェンダーが混同される趨勢に拍車をかけている。
MtFトランスジェンダーが夜の飲食店などで接客業に就労しているケースを「ニューハーフ」と呼ぶことがあるが、こうしたニューハーフらをとりあげた特集番組などでも、かつてはある種の「珍獣」としての位置付けでスタジオに複数集め、面白おかしく弄って嘲笑って愉しむようなつくりのものが主流であった。
最近でこそ、彼女らの人格を尊重した真摯な取材に基づく番組もたまにあるが、テレビのバラエティ番組全体の傾向は、大きくは変化していない。油断するとホモネタ、オカマネタのギャグが、突然飛び出してきたりすることもよくある。
ドラマやドキュメンタリーといったジャンルの番組であれば、相対的に丁寧で良心的なつくりの場合も多いが、どうしても一般向けのわかりやすさに傾斜した「LGBT特集」に陥りがちで、バラエティとは別の意味で偏った内容であることがしばしば見られる。
メディアが多極化した近年になってもなお影響力が非常に大きいテレビが、誤った認識を助長する情報を発信し続けるかぎり、いつまでたってもセクシュアルマイノリティへの偏見が再生産され、差別がなくならないという悪循環は断ち切れない。日本社会では、性の多様性にむしろ好意的な文化的風土の上であるがゆえに、西洋的なフォビアに基づいた言説もカジュアルに表出するために、その結果としてセクシュアルマイノリティにとってシビアな状況が日常の中で恒常化してしまっているのだとすれば、それを改めていくためにも、正しい情報を不断に発信していく使命は、マスメディアにとって非常に重いと言えるだろう。