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アライ~「普通」 [性の多様性]

ここ10年前後の間に、国内のセクシュアルマイノリティをめぐる状況は、総体的にはめざましく進歩したと言えるのはまちがいない。立法や行政、司法のレベルや、あるいは民間企業等、その他の公共の場面でも、LGBTの存在が念頭に置かれ、さまざまな取り組みがなされるように、少しずつではあるがなってきている。一般の人々の間でも、偏見を排した豊富な情報が出まわることで理解が進み、意識の変革は着実に進んでいる。自身はLGBTには該当しないが性的少数者に好意的で必要に応じて支援者になるという人たちも増え、「アライ」と呼ばれている。いわば、性的少数者は「差別してもよい変態」ではなく、LGBTが生きづらさに直面せざるをえない社会環境は人権問題なのだという認識が広まってきているのである。
もちろん、一口に日本国内と言っても都市部と地方では当然に様相は異なり、地方ではまだまだ古き良き伝統と表裏一体の保守的な因習が残る中で、「普通」とされるセクシュアリティから外れる性的少数者への風当たりの強さは都市部の比ではないという話も折にふれて耳にするので、そのあたりも解釈のマージンが若干は必要である。
加えて、ぜひふまえるべき点を、今一度ここで確認するなら、それは、性的少数者は特別な存在なのではなく、性的少数者ではないことが「普通」なのではない、ということである。
自らを「普通」という強者の位置に置いて、かわいそうなマイノリティのことを理解してあげるというスタンスだと、決して良い結果へはたどり着かない。なぜ現に「普通」とされているセクシュアリティだけが「普通」なのか? を疑ってみることこそ、ひとりひとりの多様で豊かなセクシュアリティを再考する機会にもなるだろう。多様な存在が、わけへだてなく尊重され受容される社会のほうが、よりおおらかで誰もが生きやすいであろうことは言うまでもない。


男の娘~BL・百合 [性の多様性]

テレビのバラエティ番組などでは主流である「オネェ系」類型の一方で、ライトノベル、マンガ、アニメなどに描かれる性的少数者はどうだろうか。同性愛およびトランスジェンダルな要素を基本的には好む文化的風土という基盤上で、これらのポピュラーカルチャーでは、またちがった特徴的な様相が顕著となっている。特に今世紀に入って以降、この分野でのさまざまな試みは、現実のセクシュアルマイノリティの実際よりも数歩先を行く先進的な取り組みになっているとさえ言える。
日本のアニメにおいては、その源流が『リボンの騎士』のサファイア王子といった草創期の作品にまでさかのぼれるほど、トランスジェンダルな登場人物は珍しくない。以降も『ベルサイユのばら』のオスカル、『ストップ!!ひばりくん』の大空ひばりなどをはじめ、枚挙にいとまがないくらいだ。むろん近年の作品群にも、その特長は受け継がれており、2010年代に入ると、その描かれ方も多様化し、進化している。美少女の姿の少年が活躍する作品群は「男の娘」ものと呼ばれ、人気のジャンルとして興隆している。
このように男女の二元的な区分に収まらないキャラクターをくりかえし目にする機会があることは、視聴者の性別観に作用し、性別概念自体を問いなおす原体験にもなる可能性があるという観点から、おおいに意義があるだろう。
BL(ボーイズラブ)と呼ばれる、男性どうしの性的なものを含む親密な関係性を描いたマンガなども、すでに巨大な市場として認識されている。これらは、おもに異性愛女性の性的ファンタジーに応えるものとして制作されているため、これらに描かれるホモセクシュアルは実際の男性同性愛者の現実を反映したものではないとして批判されることもあるようだが、入手のしやすさから、若いゲイ男性が読者となることも少なくないようである。
女性キャラクターどうしの親密な関係性を物語の主眼に置いた作品群もまた、年々ボリュームを増してきていて、「百合」と言えばジャンルとして通用するようになっている。こちらも作品ごとの方向性は多様であり、現実の女性同性愛を必ずしも反映していないのはBLと同じであるが、やはりレズビアン女性からの一定のニーズはあるようだ。また男性の愛好者が多いのとともに、広く女性全般からも支持があるのは、BLと対比したときの百合の特徴となっているかもしれない。
「BL」も「百合」も、そのポイントは直接的な性的描写ではなく、登場人物どうしの心の襞に触れるような関係性のやりとりだと言われている。それを「異性間」に読み替えるにせよ、「友人」関係に当てはめるにせよ、そうした人間関係のモデルケースを、同性どうしの親密性描写の中から読み取る経験が、多くの人々に共有されることは、やはり異性愛至上主義が相対化されるうえで有意義だろう。
このように、ポピュラーカルチャーに登場するセクシュアルマイノリティ表象は、必ずしも現実世界の状況と写実的につながってはいないとしても、その質と量の双方から、現実に作用してそれを変えていく力を持つだけのものになっている。

 


オネェ系~ニューハーフ [性の多様性]

日本のテレビのバラエティ番組などには、セクシュアルマイノリティ表象をともなった芸能人が多数出演している。
これに対しては、本来は日本社会には同性愛やトランスジェンダーなどに寛容な文化的特質があり、古来よりそうした多様なセクシュアリティを積極的に取り入れた芸能を愛好してきた歴史が、現在もなお息づいているのだという指摘もある。今日の日本におけるホモフォビアやトランスフォビアが、明治以降に近代化の過程で西洋から輸入されたものだという側面も、たしかに大きいので、これは一面の真理ではあると言えよう。
しかし、メディアの中に描かれる性的少数者にかんしては、楽観的に見過ごしてはいられない問題も多々ある。
昨今のテレビではセクシュアルマイノリティ表象をもつ芸能人をひとくくりに「オネェ系」として扱い、同性愛者とトランスジェンダーが混同される趨勢に拍車をかけている。
MtFトランスジェンダーが夜の飲食店などで接客業に就労しているケースを「ニューハーフ」と呼ぶことがあるが、こうしたニューハーフらをとりあげた特集番組などでも、かつてはある種の「珍獣」としての位置付けでスタジオに複数集め、面白おかしく弄って嘲笑って愉しむようなつくりのものが主流であった。
最近でこそ、彼女らの人格を尊重した真摯な取材に基づく番組もたまにあるが、テレビのバラエティ番組全体の傾向は、大きくは変化していない。油断するとホモネタ、オカマネタのギャグが、突然飛び出してきたりすることもよくある。
ドラマやドキュメンタリーといったジャンルの番組であれば、相対的に丁寧で良心的なつくりの場合も多いが、どうしても一般向けのわかりやすさに傾斜した「LGBT特集」に陥りがちで、バラエティとは別の意味で偏った内容であることがしばしば見られる。
メディアが多極化した近年になってもなお影響力が非常に大きいテレビが、誤った認識を助長する情報を発信し続けるかぎり、いつまでたってもセクシュアルマイノリティへの偏見が再生産され、差別がなくならないという悪循環は断ち切れない。日本社会では、性の多様性にむしろ好意的な文化的風土の上であるがゆえに、西洋的なフォビアに基づいた言説もカジュアルに表出するために、その結果としてセクシュアルマイノリティにとってシビアな状況が日常の中で恒常化してしまっているのだとすれば、それを改めていくためにも、正しい情報を不断に発信していく使命は、マスメディアにとって非常に重いと言えるだろう。

 


カミングアウト [性の多様性]

セクシュアルマイノリティに対する誤解や偏見、およびそれらに基づいた差別的な事案は、まだまだ一般的である。このためセクシュアルマイノリティ本人は、自分のセクシュアリティのことを周囲の人達には隠し、秘密として決して明かさないことを強いられがちである。そうなると、ちょっとした日常会話でも自分を偽らざるをえず、周囲との対人関係にうまく溶け込めず、社会生活に支障をきたすことになる。
また「男は男らしく、女は女らしく」というような規範が根強い中では、それらを本人自身が強く内面化していることもままある。そのため自己肯定感が持てず、やはり人間関係がうまく築けないことにつながりうる。性別違和が激しいトランスジェンダー系性的少数者の場合など、本人が意図しなくても、割り当てられている性別に見合った役割期待に反して、男らしくない・女らしくないものが滲み出てしまい、これが周囲から否定的に反応されることで、さらに自己肯定感を下げるスパイラルに陥るようなこともあるだろう。
こうして社会関係から疎外された性的少数者が、心を閉ざし精神的に引きこもった状態になることは少なくない。あるいは、物理的にも引きこもり生活に入る人もいるだろう。深刻な場合は自殺を考えるようなケースもしばしば聞かれるところである。
この、セクシュアルマイノリティが社会に対してありのままの自分をオープンにできないことに由来する状況を、アメリカでは「押入れに閉じこもってしまう」というニュアンスの比喩で「クローゼット」と呼んでいた。そして、それに対照する概念として提唱されたのが、ありのままの自分を認め、それを受け入れてくれる人との関係性を紡ぐことで、クローゼットから出てこようというもの。「出てくる/ come out 」ということで、現在は日本語圏でもカムアウト、もしくはカミングアウトという形で、この言葉はよく使われるようになっている。
したがって「カミングアウト」とは、単になにがしかの秘匿していた自分についての情報を開示することの意で使われがちな現状もないではないが、本来の趣旨からすれば、本人の自己肯定と周囲による受容が、良い形で相互作用を起こすことが肝要なのである。
日本国内でもカミングアウトをおこない、自身のセクシュアリティをオープンにして社会生活をおこなう性的少数者は、しだいに増えてきていると言えるだろう。政界や芸能界、学界などで活躍する人も複数知られるようになってきている。
もっとも、著名人以外では、カムアウトの範囲を絞ることもままあるだろうし、誰もが気がねなくセクシュアルマイノリティであることを明かせる環境には、まだまだ遠いのもまちがいない。訪日した外国人などから「日本国内ではLGBTの姿が見えない」との声も聞こえるのは、存在が表立たずに潜在化していることを示してもいて、諸外国にくらべて先進的な部類であるとも言い切れないだろう。
ただ、アメリカなどではセクシュアルマイノリティに対する宗教的な信念に基づいた憎悪を動機とする傷害や殺人の事件も深刻な問題として報告されてきたのにくらべると、日本国内での課題は、そのような次元のヘイトクライムよりは、もっとカジュアルで日常的なものに重心があるように見受けられる。日本でのホモフォビアやトランスフォビアは、いわゆる島国の閉鎖的なムラ社会体質における同調圧力と、偏見に起因する不寛容と悪意が結びついて、恒常的な差別コードとして立ち現れているものという側面も大であろう。したがって、そうした日本社会の特質を解きほぐすことで、これらセクシュアルマイノリティ差別を超克するためのヒントもまた見い出せる希望はある。


◎カミングアウトと家族
自身の性的少数者としてのセクシュアリティを周囲の人々に明かし、ありのままの自分で関係性を紡ぎなおそうとする行為は、必ずしも珍しくはなくなってきているが、いつ誰に対しても躊躇なくカムアウトできるかというと、それも困難な現状である。
一般的には、ごく親しい間柄の相手のみに絞るのが多数例かもしれないし、もう少し広く公言するにしても、学校なら自分の学級のみ、職場なら所属する課内のみに限定するようなこともあるだろう。
また、一口にカミングアウトと言っても例えば同性愛系とトランスジェンダーでは各種の課題やめざす着地点は異なる。さらにトランスジェンダーの場合、性別移行前の時点で心の内に抱える性別違和について開示するのと、性別移行後に移行前の性別について打ち明けるのとでも、やはりカミングアウトの意味合いがちがってくる。
そしてそんな中で、最もカミングアウトがためらわれ、結果的にいちばん後回しになりがちなのが家族である。近代家族制度の紐帯でいやおうなく固く結ばれた関係であるがゆえに、もしも理解が得られなかった場合には逃げ場がない。これは、親戚一同についておおむねあてはまることであるが、とりわけ同居する核家族の内部に対しては深刻な問題となる。最悪、生活のベースとなる重要な場が致命的に崩壊してしまうことが予測される。そんなリスクを勘案すると、家族へのカミングアウトはしないで済ませられるものならそうしたいという力学が強く働くのも無理からぬことである。
この、家族が必ずしも味方になってくれるとは限らず、あまつさえ最前線の敵対勢力になってしまう可能性があるというのは各種のマイノリティの中でも性的少数者に特有な現象であろう。
例えば民族的なマイノリティであれば、それが原因で子どもが学校でイジメられたりした際には、その問題を子と親が共有することも難しくない。しかしセクシュアルマイノリティでは、同様のケースでは親に相談できず子どもがひとりで抱え込んでしまうことになりがちとなる。むしろ、類型的なパターンで言えば、男の子らしくない男の子が学校でイジメられたときに、それを父親などに相談しても「それはオマエがナヨっとしとるからや。俺が鍛えなおしてやる!」といった「セカンドいじめ」を招来してしまいかねない。
社会のあらゆる場面で性的少数者が肯定的に受容される態勢が涵養されるような啓発が望まれると同時に、近代家族制度の閉鎖的な体質などを一度しっかり洗い直すことも必要かもしれない。。


性分化疾患(DSD) [性の多様性]

身体のありようそのものが、単純な男女二分法には該当しない人たちも存在する。
最近は性分化疾患(DSD)という医療概念を用いて捉えられているが、従来はインターセクシュアルや半陰陽などという呼び方で語られていた。医学的には多くの細かなパターンがあり、個別の事例もさまざまである。
トランスジェンダー系や同性愛系とは若干位相を異にするが、多数派基準に基づく「普通」のセクシュアリティ規範に収まりきらないという点では、やはり性的少数者に含まれると考えることができる。
大多数の人は、おおむね「女性」ないしは「男性」として社会に溶け込んでいるとされているが、性分化疾患ならではの苦悩も潜在していると考えられる。また、直面する問題には、同性愛やトランスジェンダーと共通する要素も少なくないことは想像に難くない。

 


MtF/FtM~Xジェンダー [性の多様性]

シスジェンダーを「普通」とする一般社会の指標から見れば、トランスジェンダーは「性別を変えた人」として認識される。ここから、「男性」から「女性」へのトランスジェンダーをMtF( Male to Female )、「女性」から「男性」の場合はFtM( Female to Male )とする表現も成り立っている。
「女性」と「男性」では社会的な配置されている立ち位置が異なるため、トランスジェンダーが直面する状況もまた、MtFとFtMではちがった形で立ち現れる。両者に共通する問題も多い一方、それぞれ特有のものも少なくない。
また、日常生活のほぼすべてをトランスジェンダーとして送るケースを「フルタイム」、トランスジェンダーとして過ごす時間を区切ってトランジションをおこなう場合を「パートタイム」というように言い表すこともされている。これはフルタイムのトランスジェンダーとしての道は、やはり相当にハードルが高いと判断する人が少なくなく、いわゆる「週末だけ女装する」ような方策を選択せざるを得ないケースが多々あることを物語っているだろう。
特にMtFがパートタイムトランスジェンダーとなる場合、「週末だけ女装」のようにまさしくパートタイムな形はよく聞かれるところである。対してFtMの場合は、スカートをはかない・化粧をしない・短い髪などのイメージに表象されるような「男性っぽい女性」として全時間を過ごすような形が多いのではないか(なので「パートタイム」よりは例えば「パーシャル」のほうが実態を言い表せているとも考えられるが、あまりその言い回しは普及していない)。この種のMtFとFtMの相違は、一般社会の通念が、女性が「男性っぽい」ことはまだしも許容しうるが、逆は相当にクリティカルな変態認定に直結していることと深い関係があると言えよう。
なお、MtFとFtMとを問わず、「女性」や「男性」といった希望する性別の人間としてフルタイムで社会生活を営む(そのうえでトランスジェンダーであることを秘匿して平穏に暮らすことを「埋没」と呼ぶ言い方もある)となると、自然な見た目や身のこなしなどをはじめ、周囲との対人関係のやりとりをその性別で円滑にこなすことが必要となってくる。それができている状態を量る概念が「パス」で、「パスできている」「パス度が高い」などはトランスジェンダーの間ではデリケートな課題となっていたりする。
もっとも、トランスジェンダー系の性的少数者がすべて、既存の「女性」「男性」枠組みに適合したいと考えるとも限らない。「男であれ女であれ、自分には合わない」「女でも男でもない存在になりたい」というような「Xジェンダー」の存在も知られるようになってきており、MtXやFtXといった表記を目にする機会も増えてきている。


(2023/07/28)
MtFやFtMの用語は、性別移行のベクトルがわかりやすいというメリットはあるものの、2020年代に入ると、それぞれ「トランス女性」「トランス男性」という言い回しに置き換わってきている。
また「Xジェンダー」は元々和製英語であったが、これもやはり2020年代では国際的にも通じる「ノンバイナリー」のほうが主流化してきている。
これらに限らず、性の多様性に係る用語は変遷・変動が速いペースで起きがちなので、各自が注意して情報収集に努める必要はあるだろう。
「ノンバイナリー」は、上述の「Xジェンダー」を代替する意味合いの他に、そもそも男女二元的な性別制度に収まりたくない・収まれないセクシュアリティ全体を表すことも可能で、広くは「セクシュアルマイノリティ」の言い換えに用いられている場合もあるだろう。