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セクシュアリティ [性の多様性]

セクシュアルマイノリティという語は、字義においてはセクシュアリティにかかわる少数派ということになる。ではその「セクシュアリティ」とは何なのだろうか。日本語圏では、そこのところが意外と曖昧なまま使われているきらいがある。
狭い意味では「セクシュアリティ」は、性愛なり性行為といった「性的なこと」に焦点を絞った定義で使われ、この用例がむしろ中心になっている印象である。だから例えば「セクシュアリティについて議論します」などと言われれば、性行為や性的欲望などをめぐるイシューが、そこで俎上にのぼるテーマなのだと理解して差し支えないことのほうが多いかもしれない。
ただ、これがすべてだと「セクシュアルマイノリティ」が表す範囲も、狭い意味に矮小化されてしまう。
本来的には「セクシュアリティ」は、性にかかわる個々人のありようの総合的な全体像を指して言うのが、もっとも広い意味となるだろう。
すなわち、恋愛や性的関心の対象がどんな人であるのか、本人自身は性をめぐってどのような自分であろうという心持ちなのか、および本人の性にかかわる身体の状況はどうなっているか……。それらの理想と現実がせめぎあう、そのすべての要素が、各人のセクシュアリティなのであると言える。

 


クィア [性の多様性]

「性的少数者/セクシュアルマイノリティ」「LGBT」について語られる文脈において、それらにかなり近似した意味で登場する言葉として「クィア」もある。
これは元は英語圏で「変態」という意味合いで侮蔑や嘲笑のニュアンスを込めて使われることが通例だったものが、やがてアメリカでの当事者運動の興隆の中で、そうした一般的な用例を逆手に取って、性的少数者たち自身がプライドを込めて自称するようになっていったという経緯がある。
これがその後、日本語圏にも移入され、適宜使用されるようになっている。英語圏でのこうした背景をもふまえたうえで使用されている例もあるが、ただ、多くの場合はそこまで意識されずに、単純に「セクシュアルマイノリティ」の言い換えのように使われているのではないだろうか。
とはいえ、「LGBT」などが比較的真面目で堅い、いわば「お行儀の良い」文脈と親和的なのに対して、元々が変態を意味した「クィア」だと、そうした場面では捨象されてしまいがちな、より猥雑な、それゆえに豊穣な性の多様性のひろがりを包含して言い表すことがしやすいとも考えられる。筆者も、L、G、B、Tには収まりきらない、良い意味での混沌とした変態性に言及する場合などには、この「クィア」を用いることで、「セクシュアルマイノリティ」の語と使い分けている。

このほか口語表現を中心に、「ずいぶんクィアな◯◯」「このテーマについてもクィアに語ってみる」のような、修飾語的な使い方がされる例も見られる。
それから、「性的少数者」についての学究的な活動や、その成果について言い表す場合には「クィア理論」と呼ばれるようになっている。歴史的には「フェミニズム」や「ジェンダー論」の進展の中でセクシュアルマイノリティ研究も盛んになり、上述したアメリカでの「クィア」の意味合いが否定的なものから積極的なものに転換する流れにも大きな影響を与えている。研究者の間では「フェミニズム」「ジェンダー論」「クィア理論」は、互いに近い密接不可分な位置関係のものとして把握されている。

 


LGBT [性の多様性]

性的少数者のことを表し、おおむね同義に使われる語として「LGBT」も一般に普及してきている。
これは、女性同性愛者を表す「レズビアン」のL、男性同性愛者を表す「ゲイ」のG、両性愛者の「バイセクシュアル」のBなど、各々の英語表記の頭文字を並べたものである。Tは「トランスジェンダー」で、字義的には性別越境者ということになり、日本語圏では「性同一性障害」として広く知られているイメージに照応している。
こうした各カテゴリーを頭文字を並べて併記する方式は、それぞれの個別の事情のちがいを意識化させ尊重しつつも、そのいずれをも互いに対等に扱おうという狙いが込められており、その点で優れているとも言われている。
反面、カテゴライズが強調されることで、各カテゴリーの分断を招く遠因になる危険性があるという見方もできるだろう。カテゴライズの定義がひとり歩きして規範化し、すべての性的少数者が、いずれかのカテゴリーに必ずきっちり分類できるものであるというようなミスリードにもつながりうる。

 


性的少数者/セクシュアルマイノリティ [性の多様性]

性的少数者の存在は、従来は偏ったイメージで知られてきた。きちんと「男は男らしく/女は女らしく」していない、いわば「変態」だという認識である。そうした、侮蔑や嘲笑が入り混じった偏見は、ほんの20年ほど前までは主流だったとも言えるだろうし、現在もなお、なくなったわけではない。
しかし、近年は、そのような人々のことも、人間の多様なありようのひとつとして肯定する考え方が、急速に台頭してきている。特にここ10年あまりの間で、性的少数者を誤った存在であるとみなすことは差別であり、そうした差別状況を看過することは人権問題であるという機運が大きく進展したといえる。
それを受けて「変態」等々とは別のとらえ方が求められるようになった。
つまるところ「男は男らしく/女は女らしく」のような規範は、相対的により多数の人々が受容し適応している価値規準にすぎない。それにあてはまらない人々がいたとしても、それは正しくないわけではなく、少数派であるがゆえに不当に不利益を被っているマイノリティ集団なのである――。
このような経緯で概念化がなされ、登場した言葉が「性的少数者」である。カタカナに直して「セクシュアルマイノリティ」と言う場合もある。

 


メディアリテラシー [一般学術]

各種媒体、特にマスメディアにおける表現に対して、それを読み解く能力や知識など。
膨大にして一方的に流れてくるな情報を鵜呑みにするのではなく、主体的に批判的眼力を発揮して分析できることが必要である。
あらゆる(テレビに限った例でも、ドラマ、バラエティ、CM、さらにはニュースも含めたすべての)メディア表現には、ある種の恣意がはたらいていて、受け手を特定の方向に誘導しようとする、あからさまな、ないしは隠しメッセージが含まれていると、警戒しながらメディア表現に接する態度が重要だと言える。

ジェンダー関連で言えば、「テレビCMの中で家事をしているのはお母さんばかりである」などの例を発見するのは、メディアリテラシーの訓練に最適かも。
あるいは、テレビドラマが知らず知らず人々に<異性愛でなければならないという意識>を植えつけているのではないかといった視角で批評的に視聴していくことも可能だろう。

 


ノーマライゼーション [一般学術]

いわゆる障害者の自立と社会参加を促す概念。
障害者の生活をできるだけ普通(normal)に近づけていこうということ。
障害者を特別なものとして一般社会から隔離し、非障害者との共生を妨げがちだった従来への反省から言われるようになった。

多い誤解として「ノーマライゼーションとは障害者を《障害がない状態》にする、すなわち『普通にする』ことである」「障害者に特別なサービスを提供するのはノーマライゼーションに反する」などがある。そうではなく、障害者が障害があっても普通に暮らせる状態を創出し、そのために必要なら特別なサービスやケアを適宜おこなっていくのが、真のノーマライゼーションである。

「バリアフリー」などはノーマライゼーションを進めるために導入されているが、もっとも必要なのは「心のバリアフリー※」であるのは言うまでもない。
※車椅子の人にとっては階段などは深刻な障害(=バリア)なのだが、それよりももっと大きなバリアは、「健常者」を自称する非障害者が障害者を自分たちとはちがう種類の人間であるかのように見る気持ち→心なのだ

「障害がある人」に特化した配慮ではなく、誰にとってもバリアフリーな状態を想定していくことでノーマライゼーションを実現しようとするスタンスや、その成果が「ユニバーサルデザイン」。